シャンソンの祭典「パリ祭」ホームページ

40年目のパリ祭・・・・牛山 剛

名画「パリ祭」

 ルネ・クレールの名作「カトルズ・ジュイエ(7月14日)」が日本で封切られたのは、今から70年近くも前の1933年(昭和8)である。今日この会場に来られた方の中で、この映画をご覧になった方はどのくらいおられるだろうか。

 パリの下町に住む若者(ジャック=ジョルジュ・リゴー)と、花売り娘(アンナ=アナベラ)の哀歓あふれる恋物語が、7月14日の祭りをはさんでくりひろげられる映画だが、これを輸入した東和映画では、原題の「7月14日」ではあまりにストレートすぎて面白味にかけることから、「巴里祭」という邦題をつけた。名付親は川喜多かし子さんだといわれる。邦訳題名の最高傑作のひとつだろう。

 映画に描かれたパリの下町の情緒と、そこに暮らす人たちの人情、自由な雰囲気が日本の若者たちに大いに受け、パリは一躍あこがれの都となったが、「巴里祭」 の字面と語感が日本人の好みにぴったりだったことも、受けたことの一因だった。そして映画の中で効果的に使われた主題曲「パリはどんな場末でも」(ルネ・クレール作詞、モーリス・ジョーベル作曲)、も、後にリス・ゴーティの名唱によって大ヒットし、日本でも盛んに唱われるようになった。

 この映画が日本で受けたのには、もうひとつ、背景として大学を出てもなかなか就職できないといった不景気と、次第に軍国主義の影が色濃くただよい始めた当時の不安な世相も忘れることはできない。

 

 

フランス革命とマリ−・アントゥワネット讃歌

 その7月14日は、フランスでは革命記念日である。いまから213年前の1789年、ブルボン王朝の圧制と貴族や僧侶たちの横暴に叛旗をひるがえしたパリの民衆は、バスティーユの監獄を襲撃した。こうして始まったフランス革命は、やがて民衆の勝利に帰し、ヨーロッパと世界の歴史に新しい時代の訪れを告げることになった。革命時唱われた「ラ・マルセイエーズ」はフランスの国歌になり、自由、平等、博愛を表す三色旗は国旗となった。

 しかし革命によって悲運を余儀なくされた人も多く、その最たる人のひとりが、オーストリアのハプスブルグ家からブルボン王朝のルイ16世に嫁いできたマリー・アントワネットだった。 昔からフランスとオーストリアは、領地の奪い合いと王位の継承をめぐって、長い間争いをくり返してきた。王家も民衆もやがて戦争に疲れ、その無意味さに気づいたが、将来にわたって両国の間の平和を保ち続けるには、たんなる平和条約だけでなく、安心できる担保が欲しいと思った。そこで交わされたのが、王室同士の血の契約だった。こうしてアントワネットは、自分の意志とは関係なく、ヴェルサイユ宮殿の女主人になった。

 2人の結婚式が行われたのは、1770年の5月16日だった。宮廷では「マリー・アントワネットの讃歌」をつくって結婚の宴を祝った。それ以来アントワネットは、善良だがお人好しだけが取り柄のルイ16世に20年余り妃として仕えた。

 高貴で美しいアントワネットの優雅な振舞いは、豪華なベルサイユの宮殿をいっそう華やかに彩った。アントワネットにエールを送ったのは宮廷だけではなかった。国民の多くも、親しみと敬意をもって彼女を歓迎した。ハプスブルグ家はヨーロッパでもっとも由緒ある名家のひとつであり、この結婚でオーストラリアとの戦争も当分の間ないだろうと考えたフランス国民にとって、アントワネットは平和の使節のようにうつったのである。

断頭台へ

 しかし、彼女と国民の間の蜜月もそんなに長い間は続かなかった。民衆は宮廷に対する不満を次第につのらせるようになっていった。

 ルイ16世が政治的には全く無能は君主だったことは、本当だったようである。

 封建社会から近代的な市民社会へと移って行く過渡期のこの時代に、美食と狩りだけにしか興味のない君主に、国家と国民のかじとりを期待するのは、所詮無理な話だった。その無能な君主のかげにかくれて、どん欲な貴族と僧侶たちは、ますます自分たちの財産と権力を増やして行った。

 それを知っている市民たちは、歌によってルイ16世を嘲笑し、罵倒したが、それだけでは事態は一向に変わらなかった。それまではフランス文化の象徴として許していたアントワネットの豪奢な生活も、不満をつのらせた民衆には、今では浪費と逸楽としか見えなくなってきた。

 古い権力を倒し、新しい社会をつくるには実力行使しかないと知った市民たちは、ついに武器をとって立ち上がった。1789年7月14日のことである。この革命の嵐は数年間にわたってフランス全土に吹き荒れ、たくさんの人たちの血が流された。その中にルイ16世の一家もいたのである。

 マリー・アントワネットが断頭台の露となって消えたのは、1793年の10月16日だった。それより前、彼女はルイ16世とともに国外脱出を図ったが失敗し、さらに彼女にとって悪いことは、オーストリアが反革命の先頭に立ってフランスに干渉を行い、やがて戦争が始まったことである。この戦争はナポレオンの没落まで約23年間も続いた。この間にルイ王朝が倒れ、フランスに共和制がもたらされたのである。

 

哀歌

しかし、アントワネットを断頭台におくった民衆はそれがひどい仕打ちだったと思ったのだろうか、同情と憐れみをこめた歌が唱われるようになった。「マリー・アントワネットの哀歌」である。

 断頭台への階段をのぼるアントワネットの足どりは、軽やかで優雅だった。トリアノンの離宮の階段を駆けのぼったときと、同じような身軽さだったという。断頭台にのぼったとき、アントワネットは死刑執行人の足をあやまって踏み、首をすこしまげて詫びを言った。

「首を少しまげて微笑むのは皇太子妃だった頃からの彼女の癖であり、その時の彼女はたまらなく可愛いと貴族たちがいつも言ったものである。 《うっかり、いたしましたのよ》 これが彼女のこの世の最後の言葉となった」(『王妃マリー・アントワネット』遠藤周作著 朝日新聞社)

フランスとヨーロッパ文明は・・・

マリー・アントワネットに、すこし深入りしすぎたようである。フランス革命から二世紀を経て21世紀となったいま、パリの人たちは7月14日をどんな想いで迎えているのだろうか。

 ごく最近のことは知らないが、何年か前では、7月14日はまさしく革命記念日であり、軍国フランスを誇示する日だった。

  道路をはさんで両側のビルの窓という窓に三色旗がはためくシャンゼリゼの大通りを、陸、海、空の軍隊が行進する。それを市民たちは誇らし気に觀ていた。その情景は、おそらく今も変わらないだろう。

 変わったのは、第二次大戦後世界の政治や経済の主役が、フランスやヨーロッパの国々でなくなったことである。

 長い歴史の中で、世界にはいろいろな文明が生まれ、消えていったが、近世から現代にかけて世界をリードしたのはヨーロッパ文明だった。確かにヨーロッパ文明はもっとも優れた文明のひとつであり、そこから多くのことを学んだ私にとっても、いちばん好きな文明だが、残念ながら今ヨーロッパ文明には昔日の面影も力もない。

 ドイツの歴史学者オズワルド・シュペンブラーは、文明の推移を一年の周期にたとえた。文明の起原は陽光の輝く春であり、次に偉大な発展をとげる夏に入り、続いて知性の高みに至る秋を迎え、やがて哀微の冬がきて、ついには死滅するというのである。彼は今世紀の初め著書の中で、ヨーロッパ文明はすでに冬に入っていて、23世紀には死滅すると書き、それはスラブ文明(ロシア)が中国文明にとって代わられるだろうと言った。

 それに気づいたヨーロッパの人たちは、今ヨーロッパ文明の再生を図ろうとしている。EU(ヨーロッパ連合)の結成もそのひとつだが、果たして21世紀に再生できるのだろうか。

 

日本人とパリ祭

 話を日本の「パリ祭」に移すと、日本で「パリ祭」を祝うようになったのは、もち論映画「巴里祭」がヒットしてからだが、その口火をきったのは、パリに遊学した画家や文学者たちだったようである。

 当時パリは文字通りヨーロッパ文化の中心であり、画家はもち論、文学や音楽を志す多くの青年たち、芸術に憧れる若者たちの夢の都でもあった。そこには、もう日本では失われかけていた自由と、恋に彩られた青春がある筈だった。その象徴がパリ祭だったのである。

 それからまた時代が経ち、戦争も終わり、講和条約が結ばれて、日本人も自由に外国に行けるようになると、多くの人がきそって出掛けたのは、やっぱりパリだった。そして日本の街にも再びシャンソンの調べが流れるようになっていた。

 

半生を賭けた石井好子の「パリ祭」

 パリでシャンソン歌手としてデビューした石井好子さんが7月14日に日本のシャンソン歌手を総動員しての「パリ祭」を始めたのは1963年(昭和38)である。

 それ以前、戦後いち早くアメリカに留学し、日本に帰る途中パリに立ち寄った石井さんは、ふとしたきっかけからパリでシャンソンを唱うようになった。約一年パリにいて日本に帰った石井さんはその後も日本とパリを往き来しながらシャンソンを唱っていたが、やがて日本のシャンソン歌手をマネージメントする音楽事務所をつくった。そしてイベット・ジローの招聘をきっかけに、海外から音楽家を呼ぶようにもなった。

 石井さんが「パリ祭」を始めたのは、日本にシャンソンをもっと広めたいという石井さんの夢と願いからだが、その後事務所をやめてしまってからも、この「パリ祭」に賭ける夢だけは決して捨てなかった。

 「パリ祭」の始まった頃はシャンソンの人気も高く、その前後には各テレビ局がいろいろな番組で「パリ祭」を紹介した。12,3年前にも何年間か、NHKやテレビ東京が中継して特番を組んだりしたこともあった。

 この40年間を振り返ってみて、第一回目から連続して出演している歌手の人たちは、どのくらいいるのだろうか。最初の頃のプログラムを見ると、石井好子さん、芦野宏さん、深緑夏代さんに交じって、ビショップ節子さん、岸洋子さんらの名前が並んでいるのもなつかしい。この間にはイベット・ジロー、ジャン・サブロン、ジョセフィン・ベーカー、シャルル・デュモンなどの歌手たちも出演をしている。その頃の司会はずっと藤村有弘さんだった。彼の和製フランス語は客席に笑いをよんだが、今は永六輔さんが粋な司会で頑張っている。

 歌は世につれというが、いろいろなジャンルの音楽がその時代、時代の人気を集めるのは当然だが、いままたシャンソンは、大人の音楽として唱う人も多くなり、活気をとりもどしてきているのは嬉しい。

 お祭りとしてスタートした「パリ祭」だが、間で何回かテーマを決めてそのコーナーをつくったこともある。「革命期のシャンソン」では、前途のマリーアントワネットの話で紹介したシャンソンなどを集めた。しかし今は再びお祭りにもどって現在に至っている。年に一度ぐらい、理屈なしでシャンソンを心ゆくまで楽しめる、そんなお祭りがあってもいいのだろう。

 今年の第40回の豪華な顔ぶれは、まさにそのお祭りである。ここ数年はゲストにシャンソン界以外の一流アーティストを迎えているが、それも石井好子さんのプロデューサーとしての、卓抜した手腕によるものである。

 先日(6月初め)石井好子さんに会ったとき、彼女はしみじみと「80年の私の人生の半分はパリ祭と一緒に歩んできたことになる」と述懐していたが、すごいことである。脱帽としか言いようがない。

 元気な石井さんである。これからも50回60回と「パリ祭」は歴史を重ねていくだろう。

 石井好子さんの情熱と気力、高い志しに心から拍手を送りたいと思う。ブラボー!

 

                   (第40回パリ祭プログラムより)

パリ祭とは  パリ祭スナップ  過去のパリ祭  パリ祭公演概要  パリ祭出演者紹介  パリ祭余話
パリ祭インターネットSHOP
ネオ・ムスク(朝日チャリティーコンサート)  ネオ・ムスク(NEAVAより発売のCDのご案内)
TOP PAGE

E-mail:neomusk@paris-sai.com

Copyright(C)2004 neomusk.All Rights Reserved.