シャンソンの祭典「パリ祭」ホームページ

エディット・ピアフ_その生涯・・・・永田文夫

日本における名声

エディット・ピアフを知らない人が増えているらしい。無理もない。ピアフがこの世を去ったのは1963年、それからもう40年以上の歳月が流れたのだから・・・。

しかし、ピアフを知らなくても、彼女が創唱した名曲のかずかずは、多くの人々にうたい継がれている。とりわけ『バラ色の人生』『愛の讃歌』(いずれもピアフ自身の作詞)などは、世界中にひろまって、グローバルなスタンダード・ナンバーともなった。

残念ながら、ピアフは生存中に1度も日本を訪れたことがなかった。前後9回もアメリカ公演を行い、カーネギー・ホールでも2度コンサートを開いているにもかかわらず・・・である。じつは1950年代の末ごろから、しばしば来日が取り沙汰されたのだが、時すでにおそく、4回も自動車事故に遭った彼女の身体は、もうボロボロだったのだ。

ともあれ、死後半世紀近くを経た今もなお、シャンソン界におけるピアフの人気はきわめて高い。彼女が残した録音はCD化されて市場を賑わし、伝記は日本でも出版されてベスト・セラーを記録、伝記映画も好評を博した。ピアフのレパートリーの多くには日本語歌詞がつけられて、シャンソン歌手が争って取り上げる。また、壮絶なその生きざまは格好のドラマとなってたびたび上演されている。

たしかに、「魂の叫び」と言われるピアフの歌声には、一度聞いたら永久に忘れられない響きがあるし、「愛に生き、歌に生き」そのものの生涯は、万人の共感を呼ばずにはおかない。けれど、日本におけるピアフの名声は、一朝一夕に確立されたのではなく、当初はかなり過小評価されていた。

エディット・ピアフの存在が、日本でも知られるようになったのは、1950年(昭和25年)以降のこと。この年、渡部和夫氏による『バラ色の人生』の日本語訳楽譜が出版され、次いでピアフの本邦デビュー盤(もちろん78回転のSP)がリリースされた。当時在住の京都で、1948年から毎月シャンソンのレコード・コンサートを主催していた私は、やっと手に入れた輸入盤で聞く、肺腑をえぐるピアフの歌声に、はかり知れないほど大きなカルチャー・ショックを受けたものだった。

だが、シャンソンとは華やかで優雅なもの・・・という既成概念にとらわれた人々は、細かいヴィブラートをともなうピアフの発声と、余りにも切実な演唱に、拒否反応を示す向きがあったことも否めない。私が19571月に創刊した月刊誌「シャンソン」の読者による1958年度の人気投票では、5711月にピアフ特集号を組んだりしてPRにつとめたにもかかわらず、彼女はベスト・テンにも入らなかった。ちなみに、この時のトップはイヴ・モンタン、2位はジュリエット・グレコ、3位はリュシエンヌ・ドリール・・・の順で、ピアフはなんと18位だったのである。真にすぐれたものの価値は、時が経たなければ分からないというわけだろうか。その後彼女の真価は次第に認められ、1970年代に入ると、伝記の出版や映画の公開を契機に、名声と人気は日本でも完全に定着し、現在に及んでいる。

 

出生〜「エディット・ピアフ」へ

そこで、今回の第42回パリ祭は、第1部がピアフ特集という構成。いずれ劣らぬ熱唱競演を楽しみながら、この機会に彼女の生涯を振り返るのも、意義深いものがあろう。

エディット・ピアフ(本名エディット・ジョヴァンナ・ガッシオン)は1915年12月19日午前5時、パリのベルヴィル通り72番地前の路上で生まれた。父のルイ・ガッシオンはアクロバットの大道芸人。母のリーヌ・マルザも同様に、しがない場末の歌い手だった。夜中に産気づいた母親は、病院へ駆けつける途中、ふたりの警官に見守られてピアフを産み落とした(ということになっているが、私が訳して日本でも出版された実妹ドニーズ・ガッシオンの著書「わが姉エディット・ピアフ」によると、じつはラ・シーヌ通り4番地のトノン病院で生まれたという)。いずれにせよ、その出生からして、ピアフという女性は神秘のヴェールに包まれ、カリスマ性を身につけていたようだ。

10歳の頃から、彼女は父親とともに街頭に出てチップを集めた。31年に父と別れてからは、ひとりで街をうたってまわった。35年10月トロワヨン通りでうたっているところをルイ・ルプレに見出され、「ラ・モーム・ピアフ」の芸名で、彼が経営するキャバレー「ジェルニーズ」で初舞台を踏み、作詞家のレーモン・アッソ(1901〜68)や、女流作曲家マルグリット・モノー(1903〜61)の知己を得た。翌36年2月には、ダミアが創唱した『異国の人』を吹き込んでレコードにデビュー。ようやく運が向いてきた矢先の同年4月6日ルイ・ルプレが何者かに殺害され、ピアフにも嫌疑がかかって、スキャンダルの渦に巻き込まれてしまう。失意のどん底につき落とされた彼女を救ったのはアッソだった。彼はマリー・デュバ(1894〜1972)を手本にして、ピアフにシャンソンの歌い方を教え、つてをたどって1937年春、「エディット・ピアフ」の芸名でABC劇場に初出演させる。ほぼ時を同じくして『私の兵隊さん』(アッソ詞、モノー曲)のレコードが発売され、これが彼女の最初のヒットとなった。その後人気はうなぎのぼり、翌38年には真打ちのスターとしてボビノ座に進出、「ラ・ギャルソンヌ」という映画でスクリーンにも登場した。

愛に生き、歌に生き

1939年暮、自作の楽譜『アコーディオン弾き』を持ってピアフを訪ねたのは、兵役中のミッシェル・エメール(1906〜 )だった。彼は終生彼女の良きブレーンとなって、『すり切れたレコード』(1942年)、『ムッシュ・ルノーブル』(1948年)、『街の舞踏会』(1949年)、『行かないでマニエル』(1953年)、『ジャンとマルティーヌ』(1953年)など、彼女の十八番となったかずかずの名作を提供する。1962年に結婚したピアフとテオ・サラポのために、『恋は何のために』を作詞・作曲したのもエメールだった。

1940年、ピアフはブッフ・パリジャン劇場でジャン・コクトー(1889〜1963)が書き下ろしたひとり芝居「冷たい美男子」を演じ、演技に開眼する。その後の彼女は、いっそうドラマティックなシャンソンを得意とするようになった。

1941年、彼女は映画「モンマルトル・シュール・セーヌ」の撮影中に、ジョルジュ・ラコンブ監督から、作詞家のアンリ・コンテ(1904〜88)を紹介された。彼はたちまちピアフに傾倒して、猛然と作詞に取り組み、1951年度のADFディスク大賞を受賞した大ヒット『パダム・パダム』をはじめ、『道化師万歳』(1953年)などの歌詞を書く。

1944年7月、「ムーラン・ルージュ」に出演したピアフは、同じ舞台に立ったイヴ・モンタン(1921〜91)に惚れ込み、翌年の映画「光なき星」で共演したりして、彼を懸命に売り出した。45年11月、マリアンヌ・ミッシェルという女性歌手によって創唱された『バラ色の人生』の歌詞は、ピアフがモンタンに対する思いをつづったものと言われている。

彼女はほかにも、多くの歌手を世に出した。1946年にはシャルル・アズナヴール(1924〜 )を発掘して地方巡業に同行し、コーラス・グループの「シャンソンの友」を見いだして、彼らとともに『谷間に三つの鐘が鳴る』(1946年)をレコーディングする。ピアフが生涯の恋人、マルセル・セルダンと出会ったのも、1947年10月、「シャンソンの友」を連れて初のアメリカ公演中のことだった。ご承知のように、この大恋愛は、1949年10月21日、セルダンが飛行機事故で急逝するという悲劇に終わる。1950年、生死を超越した久遠の愛を高らかにうたい上げた名曲『愛の讃歌』(ピアフ詞、モノー曲)を発表。全身全霊をこめてうたうピアフの歌声は、あらゆる人々に深い感動を与えた。

1952年、歌手のジャック・ピルス(1910〜70)が『あなたに首ったけ』という歌を持って来訪。その作曲者で彼のピアノ伴奏者だったジルベール・ベコー(1927〜2001)をピアフは作詞家のルイ・アマード(1915〜92)に紹介し、このコンビによる『十字架』(1953年)が、ベコーの出世作となった。ピアフはピルスを愛して、1952年に結婚したが57年に離婚し、彼女の恋愛遍歴がつづく。『ジョニー、あんたは天使じゃない』(1953年)、『私の回転木馬』(1958年)など、歌手としての活躍も絶好調だった。ドーヴィルのシャンソン・コンクールに設けた「エディット・ピアフ賞」の受賞曲『カトリーヌの唄』(1951年)や、優勝曲『メア・キュルパ』(1954年。作詞のミッシェル・リヴゴーシュはこの曲で世に知られた)を録音して、新進作家や歌手をバック・アップ。外国曲も積極的にとりあげ、57年には南米旅行から持ち帰った『群衆』や、アメリカの歌『王様の牢屋』(仏詞はいずれもリヴゴーシュ)をうたって大成功を収めた。

晩年

1958年にジョルジュ・ムスタキ(1934〜 )を知ったピアフは、59年のアメリカ公演に同行し、彼が作った『ジプシーの恋歌』や、『ミロール』(作曲はモノー)などを創唱する。

その出演中に倒れて入院し、再起不能と言われた彼女を、不死鳥のようによみがえらせたのは、ミッシェル・ヴォケール(1904〜80)作詞、シャルル・デュモン(1929〜 )作曲の『水に流して』だった。1960年の夏、デュモンはヴォケールに連れられて、この曲を持ってピアフを訪ねた。熱狂したピアフは、同年末から幕を開けたオランピア劇場のプログラムの大半を、彼の作品で埋めた。こうして、『私の神様』(1960年)、『美しい恋の物語』(1960年)、『恋人たち』(1961年)、『カルメン物語』(1962年)・・・等々、ピアフの末期を飾るかずかずの名曲が生まれたのである。このうち、『美しい恋の物語』や『恋人たち』の歌詞は、ピアフ自身が書いているが、彼女は作詞家としてもすぐれ、1940年代から、『街に歌が流れていた』(1946年)など、多くの作品を発表して来た。

さらに、1962年のオランピア劇場では、ピアフは当時まだ無名だったフランシス・レイ(1932〜 )の作品を取り上げて、先見の明を示す。そしてその公演中に20歳も年下のテオ・サラポ(1936〜70)と結婚したが、1963年10月9日に世を去り、11日に死亡が発表されると、あとを追うようにジャン・コクトーも亡くなった。そして14日、彼女はペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、永遠の眠りについたのだった。

このような経緯を念頭において、今回の「パリ祭」を聞けば、いっそう興味深いものがあろう。なお、ピアフが死去した1963年は、奇しくも第1回「パリ祭」のコンサートが開催された年。以降第42回をかぞえる今回まで、このすばらしい催しをつづけて来られた石井好子さんに、あらためて深甚な敬意と感謝を捧げたい。石井さん、ありがとう!

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