シャンソンの祭典「パリ祭」ホームページ

「パリ祭」とともに 僕の「石井好子」体験記・・・小西良太郎

石井好子が二度笑った.

1963年の夏、石井好子に初めて会った。銀座の妙に細長いスペースの事務所で、そこが「日本のシャンソンの拠点になる」と、先輩記者に教えられていた。「歌謡曲しか判らないんですが・・・」と、僕は頭をかいた。「そう、でも私たちもよろしくね」と、石井は笑った。ベテラン歌手で音楽事務所社長の顔が、まるで童女みたいに優しく、暖かいものになった。

 それから間もなくの7月13日、日比谷野外音楽堂で「パリ祭」を取材した。石井と深緑夏代を筆頭に、戸川聡、戸山英二、真木みのる、石井祥子らが出演した。ゲストがイベット・ジローで、僕はその催しを石井の事務所の決起集会かな?と思った。後に日本最大規模のシャンソンの祭典に育つイベントの、第一歩になることなど夢想だに出来ない。

 翌64年、石井音楽事務所と僕の勤め先のスポーツニッポン新聞社が「日本アマチュア・シャンソンコンクール」を立ち上げる。

 「社長にあいさつして来たわ。愉快な人ね」

 石井がまた、あのびっくりするように優しい笑顔で言った。彼女を迎えた社長室で、彼は金だらいに足を漬けたまま「水虫の治療中で・・・」と悪びれなかったと言う。当時の宮本義男社長は、尊敬するジャーナリストだが同時に、相当な野人でもあった。

 パリ祭とコンクールを軸に、僕の毎日は突然シャンソン漬けになった。ダミア、ピアフ、グレコ、ベコー、モンタン・・・。関係者の口の端に乗る歌手名が、三橋美智也や春日八郎とごちゃまぜになった。

みんな流行歌だった!

「ロマンス」も「枯葉」も、実は流行歌のひとつだった。戦後しばらくは、シャンソンもジャズもラテンも、ヒット曲は歌謡曲の新、旧作とひとくくり。淡谷のり子や二葉あき子もシャンソンを歌っていて、特にジャンル分けはなかった。そんな歌謡少年育ちが、高英男や中原美紗緒を日劇で見、芦野宏とシャルル・トレネを重ね合わせ、越路吹雪の日生劇場に通う。

 毎年のパリ祭は、僕の勉強の場になった。日本で最初にシャンソンを取り上げたのが、昭和初期の27年、宝塚歌劇のレビュー「モン・パリ」だったこと。「パリ祭」の7月14日はもともと、フランス革命記念日で、パリの民衆が蜂起、バスティーユ監獄を襲撃した日であること。当のフランスよりも、石井好子が主宰する「パリ祭」の方が、華やかで活発なものになってしまったこと・・・。

 町には銀巴里をはじめ、シャンソン喫茶が数多く生まれ、そこを拠点に新しい歌手たちが育つ。

音楽学校出身でクラシックから転じたスターたちが第1期生なら、彼や彼女らは2期生に当たるだろうか?

そんな流れの中で、石井好子は後輩の育成にも精力的に動いた。岸洋子、田代美代子、大木康子らに、コンクールからは加藤登紀子、堀内美希、滝むつみらが巣立つ。「パリ祭」を頂点にして、シャンソンは裾野を広げ、巷に広く深い根を張っていく。

 活況のもう1つのバネになったのは、モンタン、グレコ、アズナブール、アダモらの来日公演。

石井音楽事務所は本場の魅力招へいにも力を注いだ。アルフレッド・ハウゼ、エンリコ・マシアス、イベット・ジローら多数で、和洋の才能が競演する場を作る。底上げされた歌手群とファン層が勢いを増し、シャンソンはやがて来る「流行歌・黄金の70年代」の一角を占めることになる。

岸洋子・加藤登紀子が泣いた日

マシアスの「恋心」を競作したのは越路吹雪、岸洋子、菅原洋一の3人で、結果、岸のヒットソングになった。65年のことだが、菅原はB面の「知りたくないの」で再勝負。足かけ3年の草の根活動で第一線に浮上する。岸が困惑の涙を流したのは70年、いずみたく作曲の「希望」を歌う前後だった。僕にはポップスへの転進と成功に見えた活躍だが「銀座のグレコ」の異名を持つ岸は、そのためにその地位を失うことを恐れた。力を持ったシャンソン界は、そんな排他的な空気をはらんでいたかも知れない。

 加藤登紀子は、自作自演の「ひとり腹の子守歌」を当てるまで、混迷の中に居た。60年代後半から、学園闘争、安保闘争と、若者たちは政治的行動の時期を迎えていた。台頭したのがフォークソングである。

激しい自己主張を軸に「人」と「歌」が重なり合って初めて説得力を持つ時代になる。闘士たちに共鳴し同調する加藤は、脱シャンソン、シンガー・ソングライターへの道を模索した。

 僕は岸洋子を慰め激励し、加藤登紀子の涙に共感を示しながら、その後押しをした。浅川マキのデビューを手伝い、岡林信康や高石友也らと語り合い、吉田拓郎、井上陽水、小椋佳らにシンパシーを感じた体験が、その根っこにあった。時代は激しく動き、歌は大きく変化していた。フォーク、グループサウンズ、ニューミュージック、ポップス・・・と流行歌は多岐にわたって勢いづき、若い才能は揃って「生きざま」を語った。

「君みたいな記者が、うちの事務所と親しい関係にあるのは、危険だよ!」

 石井音楽事務所のスタッフに、僕はそう言われたことがある。揺れるシャンソン歌手の若手を、そそのかす奴に見えたのだろうか。

 しかし、石井好子は動じなかった。岸や加藤の考え方を理解し、助力を惜しまない。ポップス転進もシンガー・ソングライター志向も、結果としてシャンソン人脈の拡大を意味する。だからこそ・・・と逆にシャンソンを再確認し、それに没頭する歌手たちは、得意のレパートリーを究め、その中で自己主張を強めていくだろう。石井はそういうふうに時流を読み、若いエネルギーを信じた。そのうえ彼女自身も、ロシアの反体制歌手ヴィソーツキイの作品に手を染める。より劇的なるものを模索しながら、シャンソンは時代の波にもまれ、国産流行歌と対峙する勢いを維持する。「パリ祭」の賑わいが加速するはずである。

あなた見てくれるわよね!

90年の12月、石井好子はズケリとそう言った。この人の「あなた」は時として「ああた」に聞こえる。女ボスの口調が時に伝法になるせいだ。知遇を得てもう30年近い僕は、その一言で彼女のオランピア劇場公演を同行取材することに決まる。パリでデビューして40周年のけじめ、シャンソン歌手としての集大成・・・。「これが最後になるかも知れないし・・・」というジョークが、彼女の並み並みならぬ決意を匂わせていた。

 リサイタル成功!の記事は、ホテルからスポニチにFAX送信した。時差の関係で締め切りのギリギリ。

数時間後には掲載紙面がFAXで送り返されて来る。「あなたが書いてくれた記事の中で、今度のが一番大きな扱いになったわね」具体的な内容には触れず、彼女はスペースについてだけ感想を語った。「これが最後になるかも知れないんだし・・・」と僕はジョークでお返しをした。実際のところ、「メッカ・オランピア」を制したあと、彼女が一体何を目標に歌い続けるのかは、うかがい知れるものではなかった。

 帰国して間もなく、石井好子は歌手としての自分の改造に着手した。東京芸大声楽専科で身につけ、ドイツリードに専念したころからの、ベルカント唱法を捨てる。発声を一からやり直し、地声を徹底的に鍛えて「第二の石井好子」を獲得するための苦行。もともと大きな仕事の前には、ボクサーみたいに心身をしぼり直す人である。それが足首に砂袋を巻き、日々ルームランナーの上で走る。70才前後、自らの老いを直視しての、きわめて戦闘的な自己改造だった。

 その成果は02年、人見記念講堂で開かれた東京都交響楽団との共演で、決定的に示された。生活感の色濃く野太い中・低音、悲壮なまでの高音の輝きと活力、石井好子はシャンソンを歌いながら、シャンソンを超えた。作品を「歌う」のではなく「演じる」のでもなく、彼女自身の心と体で「体現して」一瞬炎と化す境地。石井好子が鍛え直したのは、決して「声」だけではない凄味があった。彼女は稀代のボーカリストとして、自分を再生させた。その数年、石井好子が熟視していたのは、自らの「老い」と「そう長くはない現役生活」と、断じてゆるがせにしない「プロの矜持」だったろうか?

43回連続出演、82才・現役・・・

「パリ祭」は今年43回を迎えた。一度も欠かさず出演したのは石井好子ただ1人である。82才・現役。このシャンソン界のカリスマは、おそらく有終の美になるだろう舞台へ、腰を据え身構えている。

 石井好子は長く、この催しのプロデューサーであり、この世界の指導者だった。歌手の第一者であり続けながら、開拓者としての責任を、常に広範囲に果たして来た。太平洋戦争が終わった45年の9月、ジャズ歌手としてデビュー以後、歌いづめの日々が60年である。波乱に満ちた年月だが、振り返れば夢の続き、旅の続き、さまざまな感慨と十二分の達成感があるだろう。

 NHKホールの「パリ祭」を2日間歌い収めたあと、9月19,20日の2日間は、歌い慣れたメルパルク・ホールで歌手生活60年の記念リサイタルを開く。「さよならは云わない」というタイトルの持つ意味は深い。

石井好子は2つのホールの舞台で、ボーカリストとしての総仕上げをし、82年の人生を総括する。歌いながら生き、生きながら歌って来たすべてを決算する。04年、会場を東京国際フォーラムに移した都響との再演のあと、

 「一瞬だけど、神を感じたわ」

 と述懐した石井好子は、ファイナルステージの絶唱の中で再び、神を見るのだろうか?

 9月のリサイタルのあと、石井好子は長めの休暇に入る。期間は半年と決めているが、その後のことは彼女自身にも予測がつかないと言う。歌手生活60年にして初めての長期休暇である。その中で石井好子は、再び猛然と歌う意志とエネルギーを得るのか、「現役」としての限界を見定めることになるのか。

 「パリ祭」43年を追跡した僕の仕事は、長い「石井好子」体験の光栄に浴したことに尽きる。そのうえ彼女がどういう選択をするにしろ、この秋以降も僕の仕事は変わることがない。取材者としてこれに勝る喜びはないと思っている。

 

(音楽プロデューサー・評論家・元日本レコード大賞審査委員長)

「第43回パリ祭」プログラムより

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